自由は自分勝手ではない。
好きなことができること,でもない。
介入されないこと,である。
社会道徳における「自由」とは,(中略)<自分のしたいことができる>という意味ではなくて,<規範的に許されていることへの介入がない>ということである。*1
<自分のしたいことができる>ことは「自由」と呼ぶより「欲求の実現」と呼ぶ方がはるかに誤解を招かないように思う。*2
消極的自由こそが,自由の本質である。
「自分のしたいことができる」という積極的自由は,お膳立てされた自由。紐付きの自由。
助力という名の介入が正当化される。
そして「自由」は後退する。