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仏教,歴史,哲学,法律についての備忘録。

ミル『自由論』のまとめ

ミル『自由論』のまとめ

『自由論』の目的

『自由論』が示す原理

ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)が『自由論』("ON LIBERTY" 1859)で論じたのは、社会による個人の自由の制限が正当化される範囲(正当化のための原理)である(ミル著・斎藤悦則訳『自由論』*129頁~30頁)。

本書の目的は、きわめてシンプルな原理を明示することにある。社会が個人に鑑賞する場合、その手段が法律による刑罰という物理的な力であれ、世論という心理的な圧迫であれ、とにかく強制と統制のかたちでかかわるときに、そのかかわり方の当否を絶対的に左右するひとつの原理があることを示したい。

その原理とは、人間が個人としてであれ集団としてであれ、ほかの人間の行動の自由に干渉するのが正当化されるのは、自衛のためである場合に限られるということである。

物質的にであれ精神的にであれ、相手にとって良いことだからというのは、干渉を正当化する十分な理由にはならない。

多数派の専制に対抗するための「自由」

ミルが論じる「自由」の特徴は、多数派による専制に対抗する理論(手段)として論じられている点にある(仲正昌樹「解説」285頁(『自由論』278頁以下所収))。 

ミルの発想で斬新なのは、それ〔自由〕を、民主主義の制約原理として捉え直し、新たな意味を与えたことである。

 

このことは、『自由論』第1章で端的に述べられている(『自由論』20頁)。

多数派が、法律上の刑罰によらなくても、考え方や生き方が異なるひとびとに、自分たちの考え方や生き方を行動の規範として押しつけるような社会の傾向にたいして防御が必要である。

自由によって個人の考え方や生き方が多数派から防御されるべきとミルが考える根拠は、「効用」である(『自由論』32頁)。

私の見るところ、効用こそがあらゆる倫理的な問題の最終的な基準なのである。ただし、それは成長し続ける存在である人間の恒久の利益にもとづいた、もっとも広い意味での効用でなければならない。

ただし、他者を害する行為の制約及び他者を益する行為の強制によって効用が生じる場合には、自由の制限を認める(『自由論』32頁~33頁)。

自由を保障することによる効用は、個々人の個性が発揮されることによる有益性である(『自由論』37頁)。

人が良いと思う生き方をほかの人に強制するよりも、それぞれの好きな生き方をお互いに認めあうほうが、人類にとって、はるかに有益なのである。

 この発想の一因となるのは、社会が個人の自由を制限するのは、突き詰めれば、好き嫌いの感情であるとミルが認識しているからと思われる(『自由論』25頁)。

社会全体、あるいはその有力な部分に拡がった好き嫌いの感情こそ、社会が全体として守るべき規則、そして守らねば法律や世論によって罰せられるという規則を定めた事実上の主役なのである。

人間の理性には限界がある。だから自由が必要になる。

自由の効能――間違った意見も真理への到達に必要である。

ミルがあらゆる主張を自由に許すべきとするのは、認識できる範囲、理性に限界がある人間が真理に到達しようとするなら、多様な意見がぶつかり合う議論によってでしか達成できないと考えるからである。

個々の人間にとって世間とは、社会の全体ではなくて、その人が接触する一部分に過ぎない(『自由論』48頁)。よって、より多くの人が多様な意見をもちよって議論することで初めて真理に到達できる。

理性の存在意義

人間には理性が備わっている。しかし、人間の理性は一直線で真理をつかみとれるものではない。過ちを犯すことを前提にした理性である(『自由論』53頁)。

人間が判断力を備えていることの真価は、判断を間違えたとき改めることができるという一点にあるのだから、その判断が信頼できるのは、間違いを改める手段をつねに自ら保持している場合のみである。

合理的な意見と合理的な行動が、全体として、人類のあいだで優勢(同52頁)なのは、人間は自分の誤りを自分で認めることができるからである(同53頁)。

知的で道徳的な存在である人間の、すべての美点の源泉がそこにある。

このような限界を持った理性をもつ人間は、自分の主張の正しさを主張するためには、反論に耐えること、その前提として、反対者に反論の機会を与えることが必要になる(52頁)。

自分の意見に反駁・反証する自由を完全に認めてあげることこそ、自分の意見が、自分の行動の指針として正しいといえるための絶対的な条件なのである。全知全能でない人間は、これ以外のことからは、自分が正しいといえる合理的な保証を得ることができない。

この考えは、手続的正義の考え方に通じ、さらには、クリスティーン・コースガードの手続き的実在論(procedural realism)/構成主義(constructivism)にも通じるかもしれない。カール・ポパーの議論にも通じるかもしれない。

多様性

ミルは、人間の制限された理性によって真理に到達するためには議論が必要であることを繰り返し強調する(90頁)。

意見の違いがありうる問題の場合、真理は、対立し衝突し合う二つの意見をあれこれ考え合わせることによってもたらされる。

そうした議論の前提として必要になるのは、多様性である(118頁)。

人間の知性の現状において、真理のすべての面が公平に扱われる機会は、ただ意見が多様であることによってのみ得られる。

 みんなにとって邪魔な多様性・自発性

しかし、多様な意見の下地となる多様な個性、個性の自由な発展、すなわち自発性は、邪魔者扱いされるのが常であるという(139頁)。

自発性は、道徳や社会の改善を説くひとびとの大多数にとっても、少しも理想ではない。社会改革者たちは、むしろ警戒心をいだく。改革者たちが人類にとって最善のものと考えるあり方を、一般のひとびとに受け入れてもらおうとするとき、個人の自発性はじつに厄介で、かなり反抗的な邪魔者に見えるのである。

 

自由の副産物—理性の働きを高める。

反論を封じることは、「正しい意見」にとって利敵行為である(83頁)。

異端者が沈黙すれば、異端の意見について公平で徹底した議論はけっして行われないことになる。そして、異端の意見は徹底的に議論すれば敗れて消え去るものもあるはずなのに、議論しなければ、普及を抑えつけることはできても、それを消滅させることができないのである。

そして、「正しい意見」の側をも傷つけることになる(同)。

最大の被害者は、異端ではないひとびとである。ひとびとは異端者とされることを恐れて、精神ののびやかな発展をすべて抑制し、理性の働きをすくませる。

反論があってこそ、理性の働きが高まる。たとえ、その反論が結果として誤りであったとしても、再反論のために議論が深まる。ただし、十分に研究と準備がされていることが前提である(84頁)。

自分の頭で考えず、世間に合わせているだけの人の正しい意見よりも、ちゃんと研究し準備をして、自分の頭で考え抜いた人の間違った意見のほうが、真理への貢献度は大きい。

主張、反論、再反論が活性化しなければ、「正しい意見」も死んでいく。自分たちの頭で考えることなく、正しいとされる意見が機械的に反復されていくだけになる(87頁)。

どんなに正しい意見でも、十分に、たびたび、そして大胆に議論されることがないならば、人はそれを生きた真理としてではなく、死んだドグマ[教義]として抱いているに過ぎない。

 

ネットなどでの私人間言論への警鐘として読む。

議論を封じることの愚かさ

『自由論』は、私人対私人という構図での表現活動の衝突についても示唆を与える。

まず、意見の衝突が生じる原因(感情)を指摘して、誰もが自由の抑圧者になることを示唆している(『自由論』39頁)。

支配者もちろん、同じ市民の立場であっても、人間は自分の意見や好みを、行動のルールとしておしつけたがるものだ。この性向は、人間の本質に付随する感情の最良の部分と、最悪の部分とによって、きわめて強く支えられているので、それを抑制するには権力を弱めるしかない。

 ネットをはじめとする個人間での意見のやりとりでは、しばしば相手の意見を封殺してしまえという主張を目にする。それに対するミルの態度は『将来にわたって悪影響を及ぼすのでやめるべき』である(『自由論』45頁)。

一人の人間を除いて全人類が同じ意見で、一人だけ意見がみんなと異なるとき、その一人を黙らせることは、一人の権力者が力ずくで全体を黙らせるのと同じくらい不当である。

意見の発表を封ずるのは特別に有害なのだ。すなわち、それは人類全体を被害者にする。その時代のひとびとだけではく、後の時代のひとびとにも害を及ぼす。

有害な意見と、その意見を持つ悪人を押さえつけるのは良いことだと(しばしば無自覚に)考えている人たちは、以下の言葉に留意すべきである(59頁)。

ある意見が有益であるかどうかは、それ自体が意見そのものと同様に、見方が分かれる問題であり、議論の対象となりうるし、議論を必要とするものなのである。ある意見を有害だと決めつけるためには、誤りだと決めつける場合と同様に、絶対に間違いを犯さない判定者が必要である。そして、本来なら糾弾される側に自己弁護の機会を十分に与える必要がある。

反対意見を軽視する人は、それが自殺行為であることも知るべきである(60頁)。

ある意見を、自分たちの独断でそれはダメなものだとあらかじめ決めつけて、聞いてみようともしないのは、自分たちにとっても有害である。

権力による議論の封殺について

また、人々はすぐに、『逮捕しろ』などという。

逮捕は刑罰でないという点もあわせて二重に誤った主張である。

ミルは、何でも法律(刑罰)によって自由を制限しようとすることには否定的である(『自由論』21頁)。

法律で処理するのに適しない多くのことがらについては、世論によって〔行動に対する制約が〕課せられねばならない。

意見の対立が起きた際に権力が介入することの愚かさをミルは指摘している(133頁)。

〔例えば、宗教に対する中傷非難と不信仰に対する中傷非難の〕どちらをやめさせるにせよ、法律や官憲が介入すべきことがらでないことは明白だ。 

議論する上での態度

ミルは、議論する上での態度についても重要な指摘をしている(132頁)。 

われわれが論争するとき犯すかもしれない罪のうちで、最悪のものは、反対意見の人々を不道徳な悪者と決めつけることである。

そして、理論ではなく感情、「気持ち」ばかりを優先する議論も無益である(154頁)。

他人の幸福を損ねないものでも、ただ相手を不愉快にさせてはいけないという理由で抑制させられていると、良い意味での発展は何もない。

誰もがその人間性を十分に発揮できるようにするためには、だれもがそれぞれ違った生き方をするのを認めなければならない。

神ならぬ人間が真理に到達しようとするには、議論しなければならない。有益な議論をするためには、多様な主張がなければならない。その前提として、多様性を認めなければならない(165頁)。

ある人にとっては、その人間性を高めることに役立つことが、別の人にとってはその妨げになる。ある人にとっては、心を弾ませ、行動する力とものごとを楽しむ力を最高の状態に保たせる生活様式が、別の人にとっては、心理的な負担になり、内面の生活をすべて停滞させ、あるいは破壊する。

社会的な感情である寛容の精神は、対象の幅を制限しなければならない理由があるだろうか。

大衆社会の批判としての自由論

人間社会に画一化をもたらす要因として、世論による国家の支配が完全に確立していることが指摘されている(179頁)。

このほか、大衆による支配が確立したという現状認識がしばしば示される。オルテガの『大衆の反逆』との接続があるかもしれない。

自由の制限について

ミルは自由の公理として以下の2つを主張する(229頁)。

第一に、個人は、自分の行動が自分以外の誰の利害にも関係しない限り、社会にたいして責任を負わない。

第二に、個人は、他のひとびとの利益を損なうような行動をとったならば、社会にたいして責任を負う。

第一の公理については、以下のような補足がある(同)。

他のひとびとは自分たちにとって良いことだと思えば、彼にむかって忠告したり教え諭したり説得したり、さらには敬遠したりすることができる。彼の行動に嫌悪や非難を表明したくても、社会はこれ以外の方法を用いてはならない。

自由の放棄について

原理的に自由は放棄できないとミルは主張する。よって奴隷契約は、自分の生き方は自分で勝手に決めてい良いとする正当性の根拠そのものを…自分で打ち砕いてしまうものであり無効であるとする(248頁)。

自由の原理は、自由を放棄する自由は認めない。自由の譲渡まで認めるのは、断じて自由ではない。

自由を放棄した奴隷は、主体的に奴隷の立場にとどまっているとは言えない。

 

*1:以下、『自由論』からの引用は特記のない限りミル著・斎藤悦則訳『自由論』(光文社、2012年)による。また、〔 〕内はブログ筆者による補足である。