大乗仏教においても普遍的とされているもの
大乗仏教では「空」と「縁起」が真理として説かれる。
「空」と「縁起」は、同じことの視点を変えた言い換え
である*1。
縁起によって存在しているものは、そのものを存在させている直接、間接の原因や条件が変化したり依存関係のあるものが変化したり無くなれば、その存在自体も変化し消滅していきます。こういった存在状態にあることを一言で空と表現します。また無我ともいいます。
それでは、「空」や「縁起」もまた「空」なのか。
「空」や「縁起」、「四諦」といった道理は「無為法」であり、不生不滅であって、条件変化や依存関係にあるものの変化によって影響を受けない*2。
ところが原始仏教では真理軌範としての法が説かれている。縁起や四諦の道理などがそれである。縁起の道理は仏の出世不出世にかかわらず、法として決定し、法界法住の永遠不滅の真理であるとされる。
仏はこれを作り出したものではなく、 これを発見して世の人々に説くのであるとされる。この意味の真理は不生不滅の永遠の存在であるから無為ということができるである。
ただし、水野は、以下のようにも言い、『仏教においても真理は普遍のものとして存在している』と安易には言えないことを示唆している*3。
しかし原始仏教では、この真理を存在としては説かなかった。存在とは具体性をもったものであり、後世の用語では事とか相としての存在を存在として説き、理とか性とかいうものは存在としなかったようである。哲学的用語でいえば内容ある具体的なものを存在とし、無内容な形式そのものは存在としなかったと思われる。
なお、「空」は有でもなく無でもない*4。
故に空自身は有でもなく無でもなく、非有非無の中道と同義であり、ニルヴァーナに至る道であるにもかかわらず、空見とはその空を有または無のいずれかに解することである。