室町時代の名門武家のその後
足利氏
嫡流→断絶
室町幕府第15代将軍足利義昭には嫡子・足利義尋がいた。義尋は1歳で出家し、後に大乗院門跡。さらに後に還俗。2子を設ける。それぞれ実相院門跡(義尊)及び円満院門跡(常尊)となり、子はいない(嫡流断絶)。
鎌倉公方(喜連川氏)→喜連川藩主
古河公方・足利成氏の娘(いわゆる「氏姫」)が足利国朝(小弓公方・足利義明の次男である足利頼純の嫡子)と婚姻。豊臣秀吉から喜連川に3500石の所領を得る。
国朝病没後、足利頼氏(国朝の弟、頼純の次男)が足利成氏の娘と婚姻。
関ヶ原の戦いの後、1000石加増。
頼氏との間に生まれた嫡子・義親は頼氏よりも早く病死。
義親の嫡子・尊信が頼氏から家督を継ぐ。
平島公方(平島源公)→帰農
室町幕府第11代将軍・足利義澄(足利義政の異母弟であり堀越公方である足利政知の子)の次男・足利義維(よしつな)が、細川晴元及び三好元長に擁立され、第12代将軍・足利義晴及び細川高国を破った後、従五位下及び左馬頭に叙任される。堺公方(堺大樹)と称される。後に三好元長が細川晴元と決裂し、義維(義冬)は阿波・平島に逃亡。
第13代将軍・足利義輝が暗殺されると、義冬の嫡子・義栄(よしひで)が第14代将軍となる。
義冬の次男・義助(よしすけ)が継ぐ。義助は長宗我部元親を支援して所領(3000貫、1貫文=2石として6000石)を維持する。
蜂須賀家政が豊臣秀吉から阿波の大名に任じられると、義助の所領は100石に激減。
足利義次のときに「平島」姓への改姓を蜂須賀氏から強制される。
平島義根のとき阿波を去り、京へ。足利姓に復姓。
以後、紀州徳川家並びに等持院、天竜寺、相国寺及び金閣寺からの援助を受ける。
斯波氏
宗家(武衛家)→肥後細川氏家臣
細川・畠山との争い及び内紛によって衰えた斯波氏は尾張に逼塞。
尾張守護・斯波義統が守護代・織田信友によって殺害されると、嫡子・斯波義銀(よしかね)は織田信長を頼る。織田信友は織田信長とこれを支援した守山城主・織田信光に敗れ、信光に殺される。斯波義銀は尾張守護となり、吉良義昭及び今川義元らと組んで織田信長の追放を図ったが失敗。逆に追放される。後に信長と和解。津川義近と姓名を改める。織田信雄麾下として参加した小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉に降伏・臣従。小田原征伐の戦後処理において北條氏直の赦免を秀吉に嘆願して勘気を被る。
斯波義銀の次男・津川近利は旗本となる。その次男・津川近良(ちかなが)は松山藩士。
斯波義銀の三男・津川辰珍(たつうず)は熊本藩士となる。津川辰珍には子がなく、津川近利の長男・津川近光を養子とした。
庶流(最上氏)→交代寄合
奥州斯波氏からは最上氏が出た。最上義光の孫・最上義俊のときに最上騒動が起こり、改易。最上義俊は1万石の大名として復帰したが、子・最上義智は幼少であることを理由に5000石に減封。子孫は交代寄合として存続。
細川氏
京兆家→秋田氏家臣
細川晴元の嫡子・細川昭元は足利義昭に仕える。その後、織田信長に仕え、右京大夫に叙任され、信長の妹・お犬の方と婚姻。本能寺の変後に豊臣秀吉に臣従。
晴元とお犬の方との子・細川元勝は豊臣秀頼に仕える。大坂の役も豊臣方で戦うが、戦後に助命される。妹・円光院が秋田実季に嫁いでいたことから、秋田氏(三春藩)の客将となる。
元勝の子・義元及び元明は秋田氏に仕える。
典厩家→加賀前田氏家臣
子孫は加賀藩士
野州家→長府毛利氏家臣
子孫は長府藩士
阿波細川氏→断絶
細川真之(生母は小少将)が長宗我部元親と同盟して三好長治を倒す。その後、三好長治の弟・十河存保(まさやす)に攻められて自害。断絶。
肥後細川氏→肥後藩主
藤孝の実父は、元常の実弟であり三淵家の養子となった三淵晴員(はるかず)。
和泉上守護細川氏は、細川頼有(又はその子・細川頼長)に始まる。細川頼有は管領・細川頼之の弟。
畠山氏
宗家(奥州畠山氏・二本松氏)→水野氏家臣
畠山(二本松)義継が伊達政宗に討たれ、嫡子・義綱と次男・義孝は蘆名氏を頼る。
義綱は暗殺されるが、義孝は生き残り、二本松氏を称して、上杉景勝、蒲生秀行、加藤嘉明といった会津の大名の客分としてすごした後、岡崎藩主・水野忠善に招かれる。
畠山義孝の長子・義張及び次男・義正が水野家に仕える。
金吾畠山氏→紀州と総州に分裂
衰退した奥州畠山氏に代わり、畠山氏の嫡流となる。
畠山持国は、嘉吉の乱によって足利義教が暗殺された後、足利義教によって失脚した者らを復権させて、細川氏と畠山氏との対立を生む。畠山持国には庶子・畠山義就(よしひろ)がいたが、弟・畠山持富に家督を継がせることとしていた。しかし、持富を廃嫡して義就が家督を相続。持富は反発せず、そのまま死去したが、家臣の一部が反発。持富の子・畠山弥三郎(政久)を立てて争う。
以後、畠山弥三郎(政久)とその弟・畠山政長から始まる紀州家と、畠山義就の総州家とに分かれて争う。
紀州家(畠山政長)→旗本(高家)
弥三郎が死去すると、弟・畠山政長が継ぐ。畠山政長(妻は京極持清の娘)は東軍に属して戦う。後に細川政元に攻められて自害(明応の政変の一環)。
嫡子・畠山尚順(ひさのぶ)が継いだ後も総州家との対立は続く。
畠山高政のとき、上洛した織田信長に従ったが、後に居城・高屋城が信長によって破却され没落。畠山高政の弟・畠山政尚の子である畠山貞政は紀州に拠るが羽柴秀吉に敗北。
畠山貞政の子・畠山政信は片桐且元の右筆を経て豊臣秀吉に仕えるが、片桐且元が徳川氏へ移ると政信も徳川家康に仕える。
畠山政信の子・畠山基玄は旗本(高家)となる。
総州家(畠山義就)→断絶
畠山義就、義豊、義英、義堯と続く。細川政元と対立。足利義維(堺公方)のとき、義堯が管領に就任。
義堯が河内飯盛城の戦いで自害すると総州家は被官・木沢長政が牛耳る。
義堯の子・畠山在氏は傀儡で、木沢長政が三好長慶・遊佐長教によって敗死すると勢力は瓦解。
畠山在氏の子・畠山尚誠は大和の国人に没落。
子孫の消息は不明。
京極氏
京極持清の孫(勝秀の子)・高清は京極騒乱を収め、北近江に帰還(出雲、隠岐及び飛騨は失う。)。
京極高清の子である京極高延(兄)と京極高吉(弟)とが家督を争う。
京極高吉は家督争いに敗れた後、足利義輝・足利義昭に仕える。足利義昭と織田信長が対立した後は近江に隠居。
高次流→讃岐丸亀藩主
京極高次は、織田信長の人質となる。本能寺の変の後は、妹・竜子の嫁ぎ先である武田元明(若狭武田氏)を頼り、明智方となる。山崎の戦の後に武田元明が自害すると、各地を転々とする。竜子が豊臣秀吉の側室となったことから許されて豊臣秀吉に仕える。佐々木源氏ゆかりの近江高島に2500石の所領を得る。浅井長政の娘・初をめとる。小田原征伐後に近江八幡2万8000石、さらに後、近江大津6万石。関ヶ原の戦いでは東軍につき大津城で毛利元康、立花宗茂及び小早川秀包らを相手に奮戦。開場して高野山に上る。戦後、説得を受けて下山。若狭8万5000石を得る。
京極高次の子・忠高のとき、出雲・隠岐26万石。世継がいないまま死去したが改易を免れ、京極高和が跡を継ぎ、龍野(播磨)6万石。後に讃岐丸亀6万石。
高知流→旗本(高家)、峰山藩主、豊岡藩主
京極高知は羽柴秀吉に仕え、信濃飯田6万石を領有。関ヶ原の戦いの後、丹後12万3000石。
嫡子・京極高広が宮津7万8200石、三男・京極高三が田辺3万3000石、京極高通(甥、婿養子)が峰山1万3000石として承継。
田辺藩は豊岡3万5000石に移封。途中、減封されつつ幕末まで存続。
峰山藩も幕末まで存続。京極高久(若年寄)、京極高備(若年寄)が出た。
赤松氏
宗家→断絶
赤松義祐が織田信長と対立。
則房の次男・赤松則英が関ヶ原の戦いにおいて西軍に属し、戦後、自害。滅亡。
龍野赤松氏→帰農
赤松正則の庶子(異論あり)・赤松村秀に始まる。
その子・赤松政秀は浦上氏・小寺氏と激しく対立し、敗れる。
政秀の子・赤松広貞(兄)が死ぬと、赤松政広(斎村政広)が家督を継ぐ。
羽柴秀吉に降伏して龍野城を失う。織田信長に臣従し、蜂須賀正勝の与力となり、本能寺の変の後も秀吉に従う。四国征伐の後に但馬武田を与えられる。関ヶ原の戦いでは西軍に属するが、親交があった亀井茲矩の説得によって東軍に降伏。亀井茲矩とともに鳥取城を攻める。その際の城下焼き討ちの責任を問われて切腹。断絶。
赤松政秀の子・赤松祐高も兄・斎村政広と同じく羽柴秀吉に降伏して臣従。後に播磨半田(たつの市揖保川町半田)の家鼻城1万石を与えられる。関ヶ原の戦いでは西軍に属するも、兄・斎村政広とともに東軍へ降伏。斎村政広の切腹後は流浪し、大阪の役で豊臣方として戦った後、自害。
赤松祐高の嫡子・赤松祐則は半田で帰農。
摂津有馬氏→久留米藩主
摂津有馬氏の嫡流は荒木村重(織田方)と対立した有馬国秀が自害して断絶。
3代前の有馬澄則の子・則景(三田城主)から分かれた系統が続く。
則景の子・重則は別所氏と争い、嫡子・有馬則頼は、三好長慶、別所長治、羽柴秀吉と従い、関ヶ原の戦いでは東軍に属する。戦後、摂津有馬2万石(三田藩)を得る。
有馬則頼の嫡子・則氏は小牧・長久手の戦いで戦死。
有馬則頼の次男・有馬豊氏(妻は細川京兆家)は、始めは渡瀬繁詮に仕えて家老になり、秀次事件で渡瀬が改易されると遺領の遠江横須賀3万石を継いだ。関ヶ原の戦いでは東軍に属する。戦後、福知山6万石を得る。父・有馬則頼が死去すると、その所領である摂津有馬2万石を承継。大阪の役の後に久留米21万石に加増転封。
以後、幕末まで続く。
山名氏
宗家(但馬山名氏)→旗本
山名祐豊(すけとよ)は有子山城に拠って織田方の播磨侵攻に抵抗するが、最後は開城。
山名祐豊の三男・山名堯熙(あきひろ)は、有子山城開城の際に父と袂を分かち、逃亡。秀吉に臣従し、因幡市場城主として鳥取城攻めに参加。戦後、秀吉の馬廻となる。
嫡子・山名堯政は大阪の役で豊臣方として討ち死に。その子・山名煕政(清水恒豊)は清水正親の養子となり、山名氏としては断絶。因幡山名氏が宗家となる。
徳川綱吉の代に、清水時信が山名姓に復姓。幕末まで旗本として続く。
因幡山名氏→旗本(高家、交代寄合)
山名豊国は、兄・山名豊数によって一度は因幡を追われるものの後に復帰して家督相続。毛利氏に攻められて服属。羽柴秀吉に攻められ鳥取城に籠城。豊国は降伏して織田信長に臣従(その後、鳥取城は兵糧攻めに遭い、豊国も城攻めに参加。)。関ヶ原の戦いの後に但馬七美郡6700石を得る。但馬山名氏が断絶したことを受けて、山名宗家となる。
子孫は交代寄合として存続。
一色氏
宗家→断絶
一色義定は丹後弓木城に拠り、織田方(細川藤孝)に抵抗。和議により織田信長に臣従。山崎の戦いで明智光秀に与し、細川方によって暗殺される。
子・一色義清が家督を継いだが、細川方に攻められて戦死。これにより嫡流断絶。
庶流→旗本、播磨三草藩主
鎌倉公方に仕えた幸手一色氏は、北條氏康以後、北條氏に臣従。小田原征伐の際に豊臣秀吉に臣従。関東に移封された徳川家康が一色義直を幸手5160石で旗本として召し抱える。一色輝直のとき、下総相馬郡木野崎に移る。一色直興が三河設楽郡鳳来町に移される。一族からは勘定奉行などを勤めた一色直休がいる。
一色丹羽氏は、織田信雄、次いで徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いの後に三河伊保藩1万石を建てる。美濃岩村藩2万石の後にお家騒動で減封された越後高柳藩1万石を経て播磨三草藩1万石で明治維新を迎える。後に男系は途絶える。
以心崇伝も一色氏出身(式部一色氏)。
土岐氏
宗家→旗本(高家)
嫡流(美濃土岐氏)は、土岐頼芸(よりのり)が斎藤利政(後の道三)によって追放され、尾張(織田信秀)、近江(六角氏)、常陸江戸崎(弟・原治頼)、上総夷隅(土岐為頼)、甲斐(武田氏)と各地を転々とする。織田信長による甲州征伐の後、稲葉良通(稲葉一鉄)の協力で美濃に戻る。
次男・土岐頼次は、父・頼芸とともに美濃を追放された後、松永久秀に仕え、さらに後、豊臣秀吉の馬廻りとなって河内に500石の知行を得た。その後、徳川家康に仕え、江戸幕府の旗本(後に高家)となる。
常陸土岐氏(原氏)→旗本
常陸土岐氏(原氏)は、上杉と結んで江戸崎に拠り、小田氏と争う。
原治頼が兄・土岐頼芸から系図と家宝を譲られた後は土岐治頼を名乗った。
子・土岐治英は、佐竹の圧迫に北條氏及び小田氏と結んで対抗。
土岐治英の子(兄)・土岐治綱と(弟)土岐胤倫はいずれも小田原征伐の際に豊臣方に攻められ、それぞれが拠る江戸崎城、龍ケ崎城はいずれも落城。
土岐治綱の子・土岐頼英は後に病死。
土岐胤倫の子・土岐頼房の子孫は旗本となった。
今川氏→旗本(高家)
氏真は武田と徳川に攻められ北條氏に亡命。
最後は徳川に庇護される。
氏真の嫡子・範以の子・直房が旗本(高家)となる。後に断絶。
氏真の次男・高久は徳川秀忠に仕え、旗本となる。嫡流ではないため「品川」を名乗る。
黙秘権の根拠(なぜ黙秘が許されるのか)
※黙秘権の形式的根拠(根拠条文)については「日本における自己負罪拒否特権と黙秘権の根拠規定」を参照。
被疑者・被告人には黙秘権があります。
黙秘権の理論的根拠
黙秘権は自己決定権に基づくものです。
人は誰しも自らの意思で自らの行動を決められなければなりません。つまり、供述するかどうかも自らの意思のみで決められなければなりません。黙秘権が保障されないということは、自白するにせよ否定するにせよ供述を強制されることです。自己決定権の侵害です。
黙秘権の歴史的根拠
黙秘権は、拷問をはじめとする様々な自白強要が行われてきた歴史を根拠にしています。
現代でも自白強要は行われます。被疑者が全く供述をしない場合だけでなく、捜査官が供述してほしいと思うとおりの供述をしないときにも行われます。
黙秘権が完全に保障されれば、「黙秘します。」の一言で取調を終わらせることができます。黙秘権の行使で取調が直ちに終わるので自白強要の余地もなくなります*1。
「正直に話をするのが人として当然だ」と言えるか?
「正直に話をしろ」という潔い態度は、美徳というべき価値観です。ですが、ひとつの価値観に過ぎません。ある価値観を他人に押しつけることは不正義です。
また、話の聞き手も正直で潔いとは限りません。
意識的に悪意をもって解釈しようとする聞き手がいます。「我こそが正義」という紀尾井のある聞き手は、自分の見立てこそが正しいと考え、無自覚に、話を曲解することもあります。
こと犯罪に関して正直に話をすることは、冤罪という大きなリスクを生みます。正直に話をしても、受け手が悪意を持って解釈し、アリバイを崩す証拠*2を作出する可能性があるからです。
「潔白なら説明すべきだし、できるはずだ」と言えるか?
上述したとおり、聞き手が正直であるとは限りません。捜査官に対して必死に説明しても、捜査官が聞き入れて潔白を証明できる証拠を集めてくれるとは限りません。潔白を証明するための証拠は自分で集める必要があります。逮捕・勾留された人にはそれができません。弁護人がいるとしても、民間人でしかない弁護人(弁護士)の調査能力は捜査機関にはるかに劣ります。
また、人間の記憶は当てにならないものです。全体としては正しい説明をしたとしても、細部において事実と異なる場合はあります。我々は、2週間前の昼食の内容を覚えているでしょうか。それを覚えていないことを理由に、「あなたの記憶は当てにならない」と言われることは不合理ではないでしょうか。しかし、裁判官もそれを「不合理だ」と判断してくれる保障はありません。
なお、「犯罪は自分にとっても重大なことだから、昼食の内容と違って覚えているはずだ」という反論もあり得ます。ですが、人生での大きな出来事だからといって、細部まで覚えているでしょうか。受験したとき、告白したとき、結婚を申し込んだときなど、そうした印象深いはずの出来事であっても、細部まで覚えてはいないのが人間です。
「無実なら自白するはずがない」と言えるか?
刑事手続きに無縁な多くの人は、「無実なのだから、最初は釈放されるための方便として自白したとしても、いざ裁判となれば『真実』を話す、それが真実であると分かってもらえる。』と思ってしまいます。
しかし、その認識は誤りです。取調べから逃れるために虚偽自白をしてしまうことがあります。利益誘導が加われば、虚偽自白の可能性がさらに高まります。
平成9年(1997年)5月に千葉県流山市で起きた殺人事件では、被害者の親族(祖母と姉夫婦)が逮捕されました。祖母はいったんは自白しました。その後,否認に転じました(なお、姉夫婦は一貫して否認。)。幸いにして、その後、3名は釈放されました。そして,三名の逮捕から約14年以上が経過した平成24年(2012年)1月、真犯人が逮捕され、後に起訴されました*3。
このように、無実の人も自白します。
ミル『自由論』のまとめ
ミル『自由論』のまとめ
- ミル『自由論』のまとめ
- 『自由論』の目的
- 人間の理性には限界がある。だから自由が必要になる。
- 自由の副産物—理性の働きを高める。
- ネットなどでの私人間言論への警鐘として読む。
- 大衆社会の批判としての自由論
- 自由の制限について
- 自由の放棄について
『自由論』の目的
『自由論』が示す原理
ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)が『自由論』("ON LIBERTY" 1859)で論じたのは、社会による個人の自由の制限が正当化される範囲(正当化のための原理)である(ミル著・斎藤悦則訳『自由論』*129頁~30頁)。
本書の目的は、きわめてシンプルな原理を明示することにある。社会が個人に鑑賞する場合、その手段が法律による刑罰という物理的な力であれ、世論という心理的な圧迫であれ、とにかく強制と統制のかたちでかかわるときに、そのかかわり方の当否を絶対的に左右するひとつの原理があることを示したい。
その原理とは、人間が個人としてであれ集団としてであれ、ほかの人間の行動の自由に干渉するのが正当化されるのは、自衛のためである場合に限られるということである。
物質的にであれ精神的にであれ、相手にとって良いことだからというのは、干渉を正当化する十分な理由にはならない。
多数派の専制に対抗するための「自由」
ミルが論じる「自由」の特徴は、多数派による専制に対抗する理論(手段)として論じられている点にある(仲正昌樹「解説」285頁(『自由論』278頁以下所収))。
ミルの発想で斬新なのは、それ〔自由〕を、民主主義の制約原理として捉え直し、新たな意味を与えたことである。
このことは、『自由論』第1章で端的に述べられている(『自由論』20頁)。
多数派が、法律上の刑罰によらなくても、考え方や生き方が異なるひとびとに、自分たちの考え方や生き方を行動の規範として押しつけるような社会の傾向にたいして防御が必要である。
自由によって個人の考え方や生き方が多数派から防御されるべきとミルが考える根拠は、「効用」である(『自由論』32頁)。
私の見るところ、効用こそがあらゆる倫理的な問題の最終的な基準なのである。ただし、それは成長し続ける存在である人間の恒久の利益にもとづいた、もっとも広い意味での効用でなければならない。
ただし、他者を害する行為の制約及び他者を益する行為の強制によって効用が生じる場合には、自由の制限を認める(『自由論』32頁~33頁)。
自由を保障することによる効用は、個々人の個性が発揮されることによる有益性である(『自由論』37頁)。
人が良いと思う生き方をほかの人に強制するよりも、それぞれの好きな生き方をお互いに認めあうほうが、人類にとって、はるかに有益なのである。
この発想の一因となるのは、社会が個人の自由を制限するのは、突き詰めれば、好き嫌いの感情であるとミルが認識しているからと思われる(『自由論』25頁)。
社会全体、あるいはその有力な部分に拡がった好き嫌いの感情こそ、社会が全体として守るべき規則、そして守らねば法律や世論によって罰せられるという規則を定めた事実上の主役なのである。
人間の理性には限界がある。だから自由が必要になる。
自由の効能――間違った意見も真理への到達に必要である。
ミルがあらゆる主張を自由に許すべきとするのは、認識できる範囲、理性に限界がある人間が真理に到達しようとするなら、多様な意見がぶつかり合う議論によってでしか達成できないと考えるからである。
個々の人間にとって世間とは、社会の全体ではなくて、その人が接触する一部分に過ぎない
(『自由論』48頁)。よって、より多くの人が多様な意見をもちよって議論することで初めて真理に到達できる。
理性の存在意義
人間には理性が備わっている。しかし、人間の理性は一直線で真理をつかみとれるものではない。過ちを犯すことを前提にした理性である(『自由論』53頁)。
人間が判断力を備えていることの真価は、判断を間違えたとき改めることができるという一点にあるのだから、その判断が信頼できるのは、間違いを改める手段をつねに自ら保持している場合のみである。
合理的な意見と合理的な行動が、全体として、人類のあいだで優勢
(同52頁)なのは、人間は自分の誤りを自分で認めることができる
からである(同53頁)。
知的で道徳的な存在である人間の、すべての美点の源泉がそこにある。
このような限界を持った理性をもつ人間は、自分の主張の正しさを主張するためには、反論に耐えること、その前提として、反対者に反論の機会を与えることが必要になる(52頁)。
自分の意見に反駁・反証する自由を完全に認めてあげることこそ、自分の意見が、自分の行動の指針として正しいといえるための絶対的な条件なのである。全知全能でない人間は、これ以外のことからは、自分が正しいといえる合理的な保証を得ることができない。
この考えは、手続的正義の考え方に通じ、さらには、クリスティーン・コースガードの手続き的実在論(procedural realism)/構成主義(constructivism)にも通じるかもしれない。カール・ポパーの議論にも通じるかもしれない。
多様性
ミルは、人間の制限された理性によって真理に到達するためには議論が必要であることを繰り返し強調する(90頁)。
意見の違いがありうる問題の場合、真理は、対立し衝突し合う二つの意見をあれこれ考え合わせることによってもたらされる。
そうした議論の前提として必要になるのは、多様性である(118頁)。
人間の知性の現状において、真理のすべての面が公平に扱われる機会は、ただ意見が多様であることによってのみ得られる。
みんなにとって邪魔な多様性・自発性
しかし、多様な意見の下地となる多様な個性、個性の自由な発展、すなわち自発性は、邪魔者扱いされるのが常であるという(139頁)。
自発性は、道徳や社会の改善を説くひとびとの大多数にとっても、少しも理想ではない。社会改革者たちは、むしろ警戒心をいだく。改革者たちが人類にとって最善のものと考えるあり方を、一般のひとびとに受け入れてもらおうとするとき、個人の自発性はじつに厄介で、かなり反抗的な邪魔者に見えるのである。
自由の副産物—理性の働きを高める。
反論を封じることは、「正しい意見」にとって利敵行為である(83頁)。
異端者が沈黙すれば、異端の意見について公平で徹底した議論はけっして行われないことになる。そして、異端の意見は徹底的に議論すれば敗れて消え去るものもあるはずなのに、議論しなければ、普及を抑えつけることはできても、それを消滅させることができないのである。
そして、「正しい意見」の側をも傷つけることになる(同)。
最大の被害者は、異端ではないひとびとである。ひとびとは異端者とされることを恐れて、精神ののびやかな発展をすべて抑制し、理性の働きをすくませる。
反論があってこそ、理性の働きが高まる。たとえ、その反論が結果として誤りであったとしても、再反論のために議論が深まる。ただし、十分に研究と準備がされていることが前提である(84頁)。
自分の頭で考えず、世間に合わせているだけの人の正しい意見よりも、ちゃんと研究し準備をして、自分の頭で考え抜いた人の間違った意見のほうが、真理への貢献度は大きい。
主張、反論、再反論が活性化しなければ、「正しい意見」も死んでいく。自分たちの頭で考えることなく、正しいとされる意見が機械的に反復されていくだけになる(87頁)。
どんなに正しい意見でも、十分に、たびたび、そして大胆に議論されることがないならば、人はそれを生きた真理としてではなく、死んだドグマ[教義]として抱いているに過ぎない。
ネットなどでの私人間言論への警鐘として読む。
議論を封じることの愚かさ
『自由論』は、私人対私人という構図での表現活動の衝突についても示唆を与える。
まず、意見の衝突が生じる原因(感情)を指摘して、誰もが自由の抑圧者になることを示唆している(『自由論』39頁)。
支配者もちろん、同じ市民の立場であっても、人間は自分の意見や好みを、行動のルールとしておしつけたがるものだ。この性向は、人間の本質に付随する感情の最良の部分と、最悪の部分とによって、きわめて強く支えられているので、それを抑制するには権力を弱めるしかない。
ネットをはじめとする個人間での意見のやりとりでは、しばしば相手の意見を封殺してしまえという主張を目にする。それに対するミルの態度は『将来にわたって悪影響を及ぼすのでやめるべき』である(『自由論』45頁)。
一人の人間を除いて全人類が同じ意見で、一人だけ意見がみんなと異なるとき、その一人を黙らせることは、一人の権力者が力ずくで全体を黙らせるのと同じくらい不当である。
意見の発表を封ずるのは特別に有害なのだ。すなわち、それは人類全体を被害者にする。その時代のひとびとだけではく、後の時代のひとびとにも害を及ぼす。
有害な意見と、その意見を持つ悪人を押さえつけるのは良いことだと(しばしば無自覚に)考えている人たちは、以下の言葉に留意すべきである(59頁)。
ある意見が有益であるかどうかは、それ自体が意見そのものと同様に、見方が分かれる問題であり、議論の対象となりうるし、議論を必要とするものなのである。ある意見を有害だと決めつけるためには、誤りだと決めつける場合と同様に、絶対に間違いを犯さない判定者が必要である。そして、本来なら糾弾される側に自己弁護の機会を十分に与える必要がある。
反対意見を軽視する人は、それが自殺行為であることも知るべきである(60頁)。
ある意見を、自分たちの独断でそれはダメなものだとあらかじめ決めつけて、聞いてみようともしないのは、自分たちにとっても有害である。
権力による議論の封殺について
また、人々はすぐに、『逮捕しろ』などという。
逮捕は刑罰でないという点もあわせて二重に誤った主張である。
ミルは、何でも法律(刑罰)によって自由を制限しようとすることには否定的である(『自由論』21頁)。
法律で処理するのに適しない多くのことがらについては、世論によって〔行動に対する制約が〕課せられねばならない。
意見の対立が起きた際に権力が介入することの愚かさをミルは指摘している(133頁)。
〔例えば、宗教に対する中傷非難と不信仰に対する中傷非難の〕どちらをやめさせるにせよ、法律や官憲が介入すべきことがらでないことは明白だ。
議論する上での態度
ミルは、議論する上での態度についても重要な指摘をしている(132頁)。
われわれが論争するとき犯すかもしれない罪のうちで、最悪のものは、反対意見の人々を不道徳な悪者と決めつけることである。
そして、理論ではなく感情、「気持ち」ばかりを優先する議論も無益である(154頁)。
他人の幸福を損ねないものでも、ただ相手を不愉快にさせてはいけないという理由で抑制させられていると、良い意味での発展は何もない。
誰もがその人間性を十分に発揮できるようにするためには、だれもがそれぞれ違った生き方をするのを認めなければならない。
神ならぬ人間が真理に到達しようとするには、議論しなければならない。有益な議論をするためには、多様な主張がなければならない。その前提として、多様性を認めなければならない(165頁)。
ある人にとっては、その人間性を高めることに役立つことが、別の人にとってはその妨げになる。ある人にとっては、心を弾ませ、行動する力とものごとを楽しむ力を最高の状態に保たせる生活様式が、別の人にとっては、心理的な負担になり、内面の生活をすべて停滞させ、あるいは破壊する。
社会的な感情である寛容の精神は、対象の幅を制限しなければならない理由があるだろうか。
大衆社会の批判としての自由論
人間社会に画一化をもたらす要因として、世論による国家の支配が完全に確立していることが指摘されている(179頁)。
このほか、大衆による支配が確立したという現状認識がしばしば示される。オルテガの『大衆の反逆』との接続があるかもしれない。
自由の制限について
ミルは自由の公理として以下の2つを主張する(229頁)。
第一に、個人は、自分の行動が自分以外の誰の利害にも関係しない限り、社会にたいして責任を負わない。
第二に、個人は、他のひとびとの利益を損なうような行動をとったならば、社会にたいして責任を負う。
第一の公理については、以下のような補足がある(同)。
他のひとびとは自分たちにとって良いことだと思えば、彼にむかって忠告したり教え諭したり説得したり、さらには敬遠したりすることができる。彼の行動に嫌悪や非難を表明したくても、社会はこれ以外の方法を用いてはならない。
自由の放棄について
原理的に自由は放棄できないとミルは主張する。よって奴隷契約は、自分の生き方は自分で勝手に決めてい良いとする正当性の根拠そのものを…自分で打ち砕いてしまうものであり無効であるとする(248頁)。
自由の原理は、自由を放棄する自由は認めない。自由の譲渡まで認めるのは、断じて自由ではない。
自由を放棄した奴隷は、主体的に奴隷の立場にとどまっているとは言えない。
*1:以下、『自由論』からの引用は特記のない限りミル著・斎藤悦則訳『自由論』(光文社、2012年)による。また、〔 〕内はブログ筆者による補足である。
賀茂忠行、道を子の保憲に伝ふること(今昔物語集第24巻第15)
今は昔のことですが。
忠行は、陰陽道について昔の陰陽師たちにも引けを取りませんでした。
この時代の陰陽師たちと比べても並ぶ者がありませんでした。
なので、忠行は、朝廷でも街でも重んじられていました。
忠行が素晴らしい陰陽師だと聞いたある人が、忠行にお祓いをしてもらうことにしました。
忠行は、お祓いのために出かけようとしました。
すると、忠行の子供の保憲は、まだ10歳の子供でしたが、忠行の後ろをやたらと追いかけてきました。
しかたがないので、忠行は、保憲を牛車に乗せて、一緒に出掛けて行きました。
忠行は、出かけた先でお祓いをしました。
保憲は、忠行の隣にいました。
お祓いが終わると、忠行にお祓いをお願いした人は家に帰っていきました。
忠行も保憲と一緒に家に帰りました。
帰りの牛車の中で、保憲は
「お父様」
と言いました。
「何だ」
と忠行は応えます。
保憲は言いました。
「さきほどお祓いをしたところで、怖ろしい様子をしたものどもを見ました。人間ではないようですが、人間のような形をしていました。20人から30人くらいが出てきて、お供え物を食べていました。作り物の船や車や馬に乗って散り散りに帰っていきました。あれは何だったのでしょうか、お父様。」
保憲の言葉を聞いた忠行は思いました。
「私は陰陽道にかけては日本一だ。しかし、子供の時には保憲のように式神を見ることはできなかった。陰陽道の術を修めて初めて式神を見ることができたのだ。」
忠行は、保憲を見つめます。
「ところが、保憲は、まだ10歳だというのに式神が見えるという。並外れた者になるに違いない。神代の昔に遡っても、これほど陰陽道の才能をもった者はおるまい…。」
そう思った忠行は、自分が知っている陰陽道のすべてを、心を込めて保憲に教えました。
忠行が思った通り、保憲は陰陽道の天才でした。
保憲は様々な人に仕えて陰陽師としての仕事を立派に果たしました。
そして、保憲の子孫はその後も栄え、保憲の子孫である「賀茂家」は、陰陽道では他とは比べ物にならないほどの家系になりました。
また、暦を作ることについても賀茂家は欠かせない家系となりました。
出典
賀矢一編『攷証今昔物語集 下』(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945416
(コマ番号67)
師に代て太山府君の祭の都状に入る僧の語(今昔物語集第19巻第24)
今は昔のことですが。
三井寺に智興というお坊さんがいました。とても偉いお坊さんで、あちこちでもてはやされていました。
ところが、重い病気にかかりました。
何日たっても病気は悪くなるばかり。
智興のお弟子さんたちは嘆き悲しんで、いろいろと加持祈祷(おまじない)をしてみました。
それでも智興の具合はよくなりませんでした。
智興もお弟子さんたちも
「安倍晴明なら病気を治せるかも知れない」
と思いました。
そこで、安倍晴明を呼んで、「太山府君(泰山府君)の祭」という術で智興の病気を治してもらうことになりました。
やってきた安倍晴明は智興の様子をみると言いました。
「この病気はとても重い病気で、たとえ『太山府君の祭』をしても助からないでしょう。」
「ただし」
と安倍晴明は言います。
「智興和尚の身代わりになってもよいというお坊さんを一人、差し出してください。その人を身代わりにすれば、助けられるでしょう。身代わりがいなければ、智興和尚の病気を治すことは難しいでしょう。」
智興のお弟子さんたちは立派な人たちでしたが、
「私が智興和尚の身代わりになってもいい。」
と思う人は一人もいませんでした。
みんな、「自分の命は惜しい。自分の命はそのままであって欲しいし、智興和尚の命も助けてほしい。」
と思っていました。
「智興和尚が亡くなれば、その跡を継ぎたい。」
とも思っていました。
お弟子さんたちも人間なので、
「身代わりになってもいい。」
と思う心が露ほどもないのは、当たり前のことでした。
お弟子さんたちは、安倍晴明から「身代わりがいれば智興和尚は助かる。」と言われても、お互い顔を見合わせて、なんも言えずにいました。
そこへ、弟子たちの中でも、特にこれといったところもなく平凡に暮らしてきた証空*1というお坊さんが進み出て言いました。
証空は、智興からも大切にはされていない、貧乏なお坊さんでした。
証空は言いました。
「私はもういい年になってしまった。この先生きるとしても、たいして長く生きられるわけでもない。貧乏なので、これから先、修行して悟ることもできないだろう。結局、いつかは死ぬのだから、今、智興和尚のため、私が身代わりになって死にましょう。さあ、私を身代わりにしてください。」
これを聞いたほかの弟子たちは、
「めったにない心がけだ」
と思いました。
弟子たちは、自分が身代わりになるとは言い出せなかった人たちですが、証空が身代わりになると聞くと気の毒だと思い、泣く人も多くいました。
安倍晴明は、身代わりになる人がいると聞いて、智興の病気を治すため『太山府君の祭』を行いました。
智興は、証空が身代わりになってくれたと聞くと、
「証空は長い間、弟子として近くにはいたが、他人を助けるために自分の命を投げ出すような心がけを持っている者だとは知らなかった。」
と言って泣きました。
『太山府君の祭』が終わると、智興は元気になりました。
証空を身代わりにして智興を元気にする術は成功したのです。
そうなると、身代わりになった証空はすぐに必ず死ぬはずです。
証空は、身の回りのものを整理したり、遺書を書いたりしました。
そして、自分が死ぬときのために用意した部屋に入って独りで念仏を唱えていました。
ところが、証空は、なかなか死にません。
死なないまま、夜が明けました。
みんな、証空は死ぬと思っていましたが、まだ死にません。
「今日こそは死ぬだろう」とみんな思っていました。
そこへ安倍晴明がやってきました。
安倍晴明は、
「智興和尚は助かりました。また、身代わりになろうとした証空も助かりました。二人とも、助かったのです。」
と言って帰っていきました。
智興もその立派なお弟子さんたちも、これを聞いて喜びのあまり泣きました。
冥府の神である太山府君が、智興の身代わりになると言った証空の心がけを「あはれ」と思って、二人の命を助けたのでした。
みんな、証空の心がけをきいて、証空のことをほめたたえました。
その後、智興は証空を大切に思って、ことあるごとに、ほかの立派なお弟子さんたちよりも面倒を見てあげましたが、それも当然のこととといえましょう。
そして、 智興も証空も、長生きしたということです。
( 出典)
芳賀矢一編『攷証今昔物語集 中』(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000561539-00
(コマ番号487以下)
DVは児童虐待
家庭における配偶者に対する暴力は児童虐待に該当します。
児童が同居する家庭における配偶者に対する暴力
は「児童虐待」と定義されています(児童虐待の防止等に関する法律2条4号)。
児童虐待防止法2条本文
第二条 この法律において、「児童虐待」とは、保護者(親権を行う者、未成年後見人その他の者で、児童を現に監護するものをいう。以下同じ。)がその監護する児童(十八歳に満たない者をいう。以下同じ。)について行う次に掲げる行為をいう。
児童虐待防止法2条4号
児童に対する著しい暴言又は著しく拒絶的な対応、児童が同居する家庭における配偶者に対する暴力(配偶者(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含む。)の身体に対する不法な攻撃であって生命又は身体に危害を及ぼすもの及びこれに準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動をいう。第十六条において同じ。)その他の児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと。
面会交流の際にもこのことは考慮されます。
「暴力」(身体に対する不法な攻撃であって生命又は身体に危害を及ぼすもの及びこれに準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動)の対象が配偶者だけであって,子どもには及んでいないとしても,面会交流が認められないのが原則です。
秋武憲一ほか『子の親権・監護の実務』165頁
DV事案でも様々な態様があるため,場合によっては,面会交流を実施することができる事案もあるであろう。
「実施することができる事案もある」というのは,つまり,『実施することができないのが原則』という意味です。
ただし,同書166頁では,事案に即した解決をすべきことが強調されています。
子が非監護親の配偶者に対する暴力を見ていたということをもって,安易に面会交流を制限するべきと判断するのは相当ではないであろう。
なお,面会交流には,面談の方法による直接交流のほか,手紙を送る,写真を送るといった間接交流もあります。DVだからといって間接交流まで即座に否定するのは相当ではありません。
しかし,直接交流は原則として難しいことになります。
DVの加害者は,こう言うかも知れません。
「殴ったり暴言を吐いたりしたのは配偶者に対してだけ。子どもには何もしていない。」
実際には「児童虐待」であり,DV加害者が(その人なりに)愛していた子どもとの面会交流も制限されます。