詩歌選
遠州洋上作(遠州洋上の作)
(書き下し)
夜艨艟に駕して遠州を過ぐ
満天の明月思い悠悠
何れの時か能く平生の志を遂げ
一躍雄飛せん五大洲
(意訳)
夜,戦艦に乗って遠江沖を過ぎる。
空に満ちる曇りなき満月に思いは広がる。
いつか日頃の志を遂げて,
一躍雄飛したいものだ。この世界を。
沼津から軍艦浅間に乗って舞子へ向かう洋上の様子を詠じたとされる。
舞子は有栖川宮の別邸があった場所。
有栖川宮威仁親王が東宮賓友となったのは明治31年。
有栖川宮が東宮輔導となったのは明治32年。
九州巡啓があったのは明治33年。
大正天皇に知的障害があった云々と述べる人は,この詩を含めた1367首もの漢詩を大正天皇が詠んだという事実をどう考えるのだろうか。
そして,知的障害があったからといって何だというのだろうか。
よく分からない。
父君よ
父君よ今朝はいかにと手をつきて問う子を見れば死なれざりけり(落合直文)
小さな子どもが心配そうに,さして心配でもなさそうに,顔をのぞき込む様子か。
この歌を詠んだとき,落合の子は何歳だったのか。
隣室に
隣室に書読む子らの声きけば心に沁みて生きたかりけり(島木赤彦)
となりの部屋で小さな子どもたちが無邪気に本を音読している声が聞こえる,という解釈がある。
他方で,それなりの年齢になった子どもたちが,病気の親を慮り,小声で教科書を読んでいる,その声を聴いて子らの思いやりを実感する,という解釈(本林勝夫『現代短歌評釈』)もある。
街をゆき
街をゆき子供の傍を通る時蜜柑の香せり冬がまた来る(木下利玄)
冬が始まる。
*1:京極夏彦は,「河童はUMAではなく、土地の伝承なのですから。いたっていなくたって『居ると伝えられて』いるのです。地元の人は『河童が出たという文化』を大事にしているわけで,『生き物としての河童』なんて実はどうでもいいことでしょう。」とウェブサイト(週間 太極宮82号)で述べた。厳密には文脈が異なるが,須佐之男命の歌の捉え方に通じるものがある。