嫌々管領
足利義持・義教のころから,管領は誰もやりたがらなくなりました*1。
管領になりたくない理由
実権も実入りもない。
義持の頃から,中央と地方とのパイプ役は管領ではなく取次(申次)が担うようになりました*2。
義教の頃,中央の政策決定も,有力な一部の大名が個別に諮問を受け,その全会一致で決定されるようになりました*3。
その諮問の際の順位・重要度において管領は第一位というわけではありませんでした。
宿老である畠山満家・山名時煕が第一位です。管領はその次でした。
また,管領は,従来,訴訟全般を指揮してきました。
しかし,義教の時代,管領は正規のルートでの訴訟である外様訴訟*4だけを担当しました。
将軍親裁に近い内奏で将軍の存在感が増した分,管領の影は薄くなりました。
格式に伴う出費はある。
権力を削られた管領ですが,格式は高いままであるため,出費ばかりが多くなりました。
権力も実入りも無いのに,出費はある。
畠山満家・斯波義淳の場合
その結果,畠山満家にしても,斯波義淳にしても,このころの管領はいつもやめることばかり考えていました。
*5
それは,斯波家の家格は本来足利宗家と同格であり,執事(管領)は格下の家臣が担うべきであって云々という議論*6*7とは全く別物でした。