SBGZ

仏教,歴史,哲学,法律についての備忘録。

観応の擾乱における佐々木導誉

佐々木導誉は,観応の擾乱でも「ほぼ」一貫して尊氏側でした。

ただし一度だけ足利尊氏から「討伐」されています(以下の年表は亀田俊和観応の擾乱』145頁以下に依拠)。

月日 出来事
西暦 北朝 南朝
1351年 観応2年 正平2年 7月10日頃 赤松則祐興良親王を奉じ,播磨で蜂起。
この後,仁木頼章,仁木義長細川頼春佐々木導誉,赤松貞範,土岐頼康,仁木義氏,細川清氏,佐々木秀綱,今川頼貞,高定信,大平義尚,安保直実が領国等へ下向。
佐々木道導誉,赤松則祐(導誉の娘婿)に同調して近江で蜂起。
7月28日 尊氏,佐々木道導討伐のため近江へ出陣。
7月29日 義詮,赤松則祐討伐のため播磨へ出陣。
7月30日 直義,京都を脱出。越前へ向かう。
8月2日 後村上天皇,導誉に対し,尊氏・義詮・直義追討を命じる綸旨
8月3日 義詮,京都に帰還。
8月5日 尊氏,京都に帰還。
8月6日 尊氏,細川顕氏を使者として,金ケ崎城(越前)にいた義直に対し京都へ戻り政務に復帰するよう要請。
8月7日 尊氏の命を受けた恵鎮上人,洞院公賢北朝)に対し,南朝に講和を申し入れると表明。
8月11日 恵鎮上人,南朝から講和を拒絶されて京都に帰還。
8月18日 尊氏・義詮,近江へ出陣。
鏡宿の尊氏の本陣に佐々木導誉・秀綱参陣。
9月2日頃 近江で尊氏・義詮軍と義直軍が交戦開始。
9月3日 尊氏が二階堂行諲(娘は導誉の妻,京極秀宗の母)・安威資脩に命じ,赤松則祐を通じて南朝への講和を申し入れたとの情報が洞院公賢北朝)にもたらされる。赤松則祐,このころまでには尊氏に降ったか。
9月12日~29日 赤松則祐伊川城(12日),須磨城(26日)を攻撃し,坂根・稲野で戦闘(29日)。いずれも直義軍が相手か。
10月2日 尊氏と直義,錦織興福寺(近江)で会談(後に講和ならず。)。
10月8日 直義,近江を出る(11日には関東へ向かうことを決意。)。
10月14日 尊氏・義詮,近江から京都へ帰還。
10月25日 尊氏が南朝と講和したとの情報が京都にもたらされる。
11月2日 赤松則祐,京都に入る(尊氏へ正式に帰参)。
11月3日 正平の一統が成立。

1351年(観応2年/正平6年)7月,足利尊氏と義詮が出陣。

尊氏は近江へ出陣。南朝に降って蜂起した佐々木道導討伐のため。

義詮は播磨へ出陣。同じく南朝に降った赤松則祐討伐のため。

この出陣の直後である7月30日深夜(8月1日未明),直義が京都を脱出。

この一連の流れから,尊氏・義詮の出陣は,京都にいる直義を尊氏派で包囲するための謀略であるとされています。

例えば,森茂暁『佐々木導誉』91頁は以下のように述べています。

この事件には腑に落ちぬ点がある。最大の疑問は,尊氏・義詮に発向の理由がないことである。尊氏の発向の理由は導誉の謀反とされるが,導誉が尊氏に反逆するはずはない。この軍事行動の真の目的は別のところにあるようである。それは,おそらく洞院公賢がその日記『園太歴』の同年8月一日条に,尊氏と義詮とは示し合わせて直義を討つべく「潜通」じていたと書きとどめているように,直義を奇襲することだったろう。

ほかにも,新田一郎太平記の時代』165頁は以下のように述べています。

同月下旬になると,義詮方の武士たちが多く京都を離れて戦に備えるなど,政情は急速に不穏の度を増し,さらに月末には,佐々木導誉南朝と通じて近江に城郭を構えたのを討つという名目で,尊氏が赴き,また義詮も播磨で蜂起した赤松則祐を討つためとして京都を進発した。導誉の行動については,そもそも尊氏・義詮と通じた謀計であったと推測する研究者もあり,いずれにせよ,この間の一連の動きは,尊氏と義詮とが相互に示し合わせて直義を京都に挟撃する作戦であったと考えられている。

後村上天皇から佐々木導誉に対して綸旨が発せられた点について,森茂暁『佐々木導誉』91頁~92頁は,『導誉の迫真の演技に後村上天皇が騙された』という見解を採っています。

この作戦で導誉が重要な役割を演じている点から推測すると,この謀計自体,導誉の発案になる可能性もある。しかも,この主従対立の芝居がいかに真に迫るものだったかは,正平6年(観応2),南朝後村上天皇が導誉に対して,尊氏父子と直義の追討を命ずる綸旨を出している点に明瞭である。この綸旨は「観応二年日次記」に載せられている。

『尊氏・義詮が京都を離れたのは直義を奇襲挟撃する作戦であり,直義はこれを察知して京都を脱出した』という主張は,従来からの不動の定説*1です。

その上で,前掲・亀田147頁以下は,「不動の定説」への疑問を呈しています(括弧内は補足。)。

直義がそう(=尊氏・義詮による挟撃の謀略だと)解釈したのは確かだろうが,尊氏が本当に直義の包囲殲滅を意図していたのかは疑問が残る。

 すでに述べたように(=同書146頁),赤松則祐佐々木導誉南朝寝返りはほぼ事実であったと考えられる。包囲殲滅作戦は直義の誤解であった可能性を排除できない。

 前掲・亀田は,佐々木導誉が真実寝返ったと判断する根拠として以下の2つを挙げています。

(1)赤松則祐(娘婿)と佐々木導誉(舅)の縁戚関係

(2)後村上天皇の綸旨の存在

なお,前提として,赤松則祐赤松円心の三男)は護良親王の側近であり,護良親王に同調して反尊氏感情を抱いていたが,赤松円心・範資の相次ぐ死去によって播磨守護となった後,護良親王の遺児である興良親王を奉じて反尊氏の旗幟を鮮明にしたのではないかとしています(同書134頁以下)。

「定説」側の主たる論拠は以下の3つです。

(1)短期間で尊氏方へ帰参していること

(2)寝返りが頻発する観応の擾乱において義直優勢の際も導誉は尊氏与党であり続けたこと

(3)観応2年4月,導誉は「罪を許され」所領安堵されている上,直義も勢力を減じていたこと(=この時点で尊氏に反旗を翻すメリットがないこと)

謀略否定説の論拠となる後村上天皇の綸旨の存在は,確かに,南朝が謀略にコロッと騙されて綸旨を出す(そして導誉がこれを受ける)ことなどあり得るのだろうかという素朴な(つまり重大な)疑問を定説に突きつけるものです。

しかし,尊氏(あるいは導誉)の謀略が南朝を騙せるほどに精巧だったことの証とも考えられます。実際,直義は謀略だと判断して逃亡しています。

この時期,南朝方となることにメリットはあったのか。尊氏と直義との和議が壊れると予想していたのであれば,尊氏は直義討伐に軍を割くので南朝方に寝返っても直ちに討伐はされない,あるいは,直義討伐のために尊氏に帰参しやすい上,恩も売れると考えたのか。

*1:前掲・亀田147頁