足利義満の王権簒奪説(その欠陥)
今谷明は,足利義満が天皇の地位を足利氏に移そうとしていたと主張する。
具体的には,後小松天皇の次に足利義嗣を即位させて王権を足利氏が簒奪するという計画を義満が実行していた,という主張である*1。
正妻・日野康子を天皇の准母としたこと。
今谷は,義満が自身の正妻・日野康子を後小松天皇の准母としたことで,自身を「准父」「准上皇」にし,王位簒奪を推し進めたとする(同165頁)。
しかし,以下のように批判されている。
そもそも皇統は天皇(の血)から発生するものであって上皇(の号)から発生するものではない。このもっとも基本的な理解を忘れた点に「義満の皇位簒奪計画」説の誤りがあったといえよう。*2
義満の実母が天皇の血筋であること。
血統という点に関していえば,義満は天皇の血を継いでいる。
義満の実母・紀良子は順徳天皇の四世の孫に当たる。
しかし,義満は良子を冷遇し続けた。
良子を通じて義満に天皇の血が流れていることを根拠とする皇位簒奪説(の一派)では,このような冷遇を説明できない*3。
詩歌選
遠州洋上作(遠州洋上の作)
(書き下し)
夜艨艟に駕して遠州を過ぐ
満天の明月思い悠悠
何れの時か能く平生の志を遂げ
一躍雄飛せん五大洲
(意訳)
夜,戦艦に乗って遠江沖を過ぎる。
空に満ちる曇りなき満月に思いは広がる。
いつか日頃の志を遂げて,
一躍雄飛したいものだ。この世界を。
沼津から軍艦浅間に乗って舞子へ向かう洋上の様子を詠じたとされる。
舞子は有栖川宮の別邸があった場所。
有栖川宮威仁親王が東宮賓友となったのは明治31年。
有栖川宮が東宮輔導となったのは明治32年。
九州巡啓があったのは明治33年。
大正天皇に知的障害があった云々と述べる人は,この詩を含めた1367首もの漢詩を大正天皇が詠んだという事実をどう考えるのだろうか。
そして,知的障害があったからといって何だというのだろうか。
よく分からない。
父君よ
父君よ今朝はいかにと手をつきて問う子を見れば死なれざりけり(落合直文)
小さな子どもが心配そうに,さして心配でもなさそうに,顔をのぞき込む様子か。
この歌を詠んだとき,落合の子は何歳だったのか。
隣室に
隣室に書読む子らの声きけば心に沁みて生きたかりけり(島木赤彦)
となりの部屋で小さな子どもたちが無邪気に本を音読している声が聞こえる,という解釈がある。
他方で,それなりの年齢になった子どもたちが,病気の親を慮り,小声で教科書を読んでいる,その声を聴いて子らの思いやりを実感する,という解釈(本林勝夫『現代短歌評釈』)もある。
街をゆき
街をゆき子供の傍を通る時蜜柑の香せり冬がまた来る(木下利玄)
冬が始まる。
*1:京極夏彦は,「河童はUMAではなく、土地の伝承なのですから。いたっていなくたって『居ると伝えられて』いるのです。地元の人は『河童が出たという文化』を大事にしているわけで,『生き物としての河童』なんて実はどうでもいいことでしょう。」とウェブサイト(週間 太極宮82号)で述べた。厳密には文脈が異なるが,須佐之男命の歌の捉え方に通じるものがある。
集団による意思決定
条件さえ整えば,集団の意思決定は一人の天才の意思決定に優る。
集団による意思決定は,意見の相違と異議によってよりよいものとなる。
意見の集計と集約(平均化)は必要だが,妥協ではない。
よりよい意思決定のためには,多様な参加者が,独立に行動する必要がある。
よりよい意思決定ができる「賢い集団」の4要件*1
- 多様性(集団に属する各人が独自の情報に基づく意見を持っている。)
- 独立性(他者の考えに影響されない。)
- 分散性(各人は身近な情報に特化。誰もが『専門家』であり,『専門家』は散在している。)
- 集約性(各人の判断を集計・集約するメカニズムが存在すること。)
この四つの要件を満たした集団は,正確な判断が下しやすい。なぜか。多様で,自立した個人から構成される,ある程度の規模の集団に予測や推測をしてもらってその集団の回答を均すと,一人ひとりの個人が回答を出す過程で犯した間違いが相殺される。*2
こうした集団の意思決定を用いた最も身近で有効性が実証されているシステムが,市場である。
*1:スロウィツキー『「みんなの意見」は案外正しい』(角川文庫)31頁
*2:前掲・スロウィツキー31頁
直感を根拠にした主張は,悪い主張ではない。
法解釈の過程で,「結論の妥当性」が問題になる。
価値判断が前面に出てくる。
価値判断同士の対立は,通常の論理では解消できない。
各々の直感に拠らざるを得ない。
直感による場合でも,議論は成立する。
直感それ自体も,批判の対象となり得る。
「その直感は嘘だ」とは言えないが,「その直感は不合理である」とは言い得る。
道徳的直感の中には規範的議論において尊重に値しないものがある。その中には,誤った事実認識に起因しているものや,普遍化されたり具体化されたりすると本人でも肯定的に評価できない論理的帰結や事実上の結論に至るものがある。また同一人物が持っている直感がが矛盾する場合は,それらを整合的なものに改訂すべきである。しかしこれらのテストを通り抜けてきた道徳的な直感は,ちょうど科学において反証の最善の試みを生き残ってきた仮説と同様,とりあえずそれ採用しても不合理でない*1。
規範倫理の議論をする際,単に他説の内在的な矛盾を指摘するに留まらず,それに替わる積極的な主張をするためには,何らかの直感が必要である*2。
直感を根拠にした主張は,悪い主張ではない。
直感を根拠にした議論は,悪い議論ではない。
むしろ最後には必要になる。
イギリス議会制度の成功要因
イギリスの議会制度は,名誉革命(1688年)によって変化し,2つの特徴によって成功したとマクニールは考える(マクニール『世界史(下)』133頁以下)。
第1に,議院内閣制。
議員は自由で実際的な党派・政党を形成した。
議会は議会に代表を送り込むことができる人々の利害の変化を絶えず反映した。
内閣はこうした議会のシステムを基礎にしていた。
この政治システムは社会の変化に対応する力に優れていた。
第2に,国債。
議会が弁済義務を負う。従前の政府の借入は国王の借入だった。
イギリス議会はイギリス銀行を設立(1694年)。
イギリス銀行は議会に貸付を行う。この貸付は税金によって返済されることが担保されていた。
議会は戦費を長年に亘って繰り延べることができるようになった。
支払の保証が増大すると利子は低下し,借入が容易になった。
外国人からも借り入れすることができた。
7年戦争におけるイギリスの勝利は国債に拠るところが大きかった。
専門家集団への信頼・法の支配の確立
マクニールは,ウェストファリア条約の締結(1648年)によって宗教革命による騒乱が終息していった後,ヨーロッパの指導者によって専門家集団が重用されるようになったと考える。訓練された専門家は,真理の全面的把握にこだわることなく,激情に駆られることもなく,穏健であると考えられ,支持された(マクニール『世界史(下)』126頁)。
そして,専門家集団は,他の専門家集団に干渉しなかった。
各集団は自由に行動し,多元性と妥協が成立した(同127頁)。
アンシャン・レジームは,法の支配を確立した。
ルイ14世の死後,フランス貴族たちは既得権益を奪還するための手段として,軍事力を用いなかった。
法的手段と議論を用いた(同131頁)。
仏教とアドラー心理学の共通点及び差異
今を生きる,ということについて。
アドラーは目的論。
仏教は因果応報。しかし決定論ではない。
仏教は,現在は過去(世)の業に依るとする。ただし,いまこの瞬間に善を行った「果」によって次の瞬間に生が好転することは当然あり得る。
前向きに今この瞬間を生きるべきとし、今この瞬間に幸福になれる(救われる)可能性を認めるという点で,仏教とアドラーは共通する。
承認欲求・他者貢献について。
アドラーは承認欲求を満たすことによる幸福を否定する。他者貢献をもって幸福とする。
仏教も承認欲求を満たそうとする行為を否定する。大乗仏教の場合,自他の区別をそもそも否定する。
しかし,仏教は他者貢献をもって幸福とはしない。
他者貢献も,それができない場合には「苦」になる。
仏教は利他行を推奨する。
しかし,利他業(他者貢献)によって幸せになるために推奨しているのではない。
煩悩(執着)を捨てるためである。
自他の区別を否定するためである。
利他が釈尊の生き方(大乗仏教の徒が理想とする生き方)だからである。
存在それ自体が他者貢献である*1と考えて,他者貢献を仏教上も目的と捉えることができるか。
「貢献できている」という主観が働く以上,「貢献できていない」と感じて辛い思いをすることがあり得る。
「苦」は消えないことになる。
他者貢献を目的化することはできない。
また,仏教は存在それ自体(生きていることそれ自体)に価値を見いだしているとは言い切れない。
さらには,見いだすことに価値を見いだしうるのか不明である。
*1:「生存しているだけで価値があり,他人ためになっている。」ということ。